これは、「推し、燃ゆ」のあらすじを懇切丁寧に書いた本の紹介ブログではありません。
ミーハーさをひとかけらも持ち合わせないアラフォーの母親である私が、この本をAudibleで聞いて思ったことについてまとめたものです。
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私は、テレビを全く見ない。
また、ネットニュースもほとんど利用しない。
YouTubeもそんなに見ない。
だから、いわゆる俗語、というか、流行語、新しい言葉には、かなり疎い。
それでも、近頃、「推し」という言葉を時々目にする。
「大好き・一押しのモノ、コト」というような意味なのだろうか、と、前後の脈絡で、この言葉をなんとなく理解したつもりでいた。
宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」という本の名前は少し前から知っていた。
作家の高橋源一郎さんが、NHKのラジオ番組で、宇佐見りんさんのことを紹介していたのを聞き、知ったのである。
とても若い女性であるのに、家族を描いた作品で文学賞を取り、その後の「推し、燃ゆ」が、芥川賞受賞作であることも、高橋源一郎さんの説明により知る。
その時、高橋源一郎さんの巧みな紹介により、宇佐見りんさんへの非常な興味を覚えた。
しかし、小説を読む暇と気力がない私は、本を手に取ることもなく、それきり、忘れてしまっていた。
近頃の私は、Audibleで小説を聴くことにハマっている。
Audibleのラインナップに「推し、燃ゆ」があることを知る。
毎月1500円の聴き放題のプランに含まれていなかったので、有料で購入。
税込1750円。
形に残らない本としては、決して安くはないと思えたが、「今、読んでおかないと、この先も絶対読むことがないから」と思ったので購入。
「推し、燃ゆ」は、普通の再生スピードならば、3時間ほどで、全て聞き終えることができる。
私の場合、仕事や家事が忙しくて、本を手に取る時間がない、と普段言ってるが、歩きながら、電車に乗りながら、作業しながら、入浴しながら…と聞き続けることにより、三日間で最初から最後まで聞くことができた。
あっという間であった。
Audibleは、そういう意味で全く以て便利なアイテムである。
話を一通り読む(聞く)ことにより、推し、と、いうのは、イチオシの大好きなアイドル、芸能人のことをそう呼ぶのだ、と、理解する。
名詞として、使っている。
大好きなアイドルのことを、推し、と、呼ぶ文章に最初かなりの座りの悪さというか、落ち着がない心地がしたが、最後の方にはだいぶ慣れてきた。
イチオシの大好きなアイドル、と、いうのが、アイドルを好きな人にとって具体的にどういう存在なのか、ということが、ものすごく生々しく書かれていた。
話は最初に、主人公の高校生の女の子が、アイドルグループの大好きな男性メンバーの一人を、幼い頃の記憶からつぶさに説明し、「推し」が、自分の日常生活の中でどのような位置づけであるかを説明している。
そして、その推しを、五感で感じ取れる要素、例えば容姿とか服装とか、声とか、細かいところで言えば、一言一言の言葉や、ちょっとした視線の動きとかから、推しの内面世界までを理解するように努めている。
それが、自分の生きている証であるかのような女の子の内面の描写を、非常に巧みに描くところから始まっている。
男性アイドルグループを追いかけるという趣味・嗜好・楽しみ・喜びは、残念ながら私には全くない。
だから、そういった女性の日常生活は、あまり想像もできなかったが、この本は、彼女たちの心を多少なりとも理解する手がかりとなった。
私の部下にも1人、嵐の大ファンの若い女性がいる。
彼女は、嵐が活動していたときには、有給をとって、東京にせっせとコンサートに通い、発売されるグッズを買い、フアンクラブの会員として各種情報を仕入れ…ということをやっていたようである。
全くこの主人公の女子高校生と同じような気持ちなのだろう。
「こういうのを『推し』と呼ぶのだ!!」と、その言葉意味を、この本でより深く理解することができた。
小説は、アイドルの単なる追っかけ的な女子高校生の微笑ましい日常生活の話から徐々に、深刻な重苦しい話となってくる。
主人公は、学校生活、日常生活を「普通に」生きていくことについて生きづらさ、苦しさ、劣等感を覚えている女の子であった。
この辺りの描写から、私は自分の不登校・引きこもりの息子たちのことを思い出す。
昨日、たまたま、私は、学校に関わりを持とうという意欲を、再びなくしてしまった長男を、久しぶりにメンタルクリニックに連れて行った。
「推し、燃ゆ」を最後まで読み、社会に溶け込んで生きていくことができない子供が内面に抱える苦しみ、そして、その親の苦しみ。
親として、そういった子供をどのように理解していくのが良いのか、どのように寄り添っていくことが良いのか、ということについて、暗い気持ちで考えてしまった。
子供のことで、あまり神経質になってはダメ。
不登校や、引きこもりは、あくまで息子たちの問題。
私は、私自身がどう生きていくかという問題についてのみ一生懸命向き合って行けば良いのであり、息子たちの問題を自分の問題にすり替えてしまってはいけない。
こういったことを、長年の不登校の親の経験から理解しているつもりではある。
それでも、時折不安になる。
自分が、未来永劫、子供たちを最後まで養っていくことできないから。
子供たちが着実に成長していて、いつかは社会に出て自立できる、と信用することができなく、苦しくなってくることがあるから。
社会と関わる気力をなくしてしまった子供たちを、理解できない時もあるから。
この本は、そういった私の奥底にある気持ちをほじくり返すような心持ちにさせた。
子供たちの明るい未来がないのでは、と、思ってしまう。
しかし、この本が芥川賞受賞作として評価されるという事は、世の中にこのような生きづらい気持ちを抱えている人たちが、少なくないということであろう。
「我が家だけじゃないよな〜、こんな問題を抱えているのは…!」とやや気持ちを持ち直す私であった。